老いた男の性欲を描く [恋愛小説などから学ぶ]
カズオ・イシグロ『充たされざる者』古賀林幸・訳 早川書房
原題は'The Unconsoled'。
本作を初めて読んだ時、私はフランツ・カフカの『城』を思い浮かべました。
本作では「じいさん」と表現される年齢のブロツキーという登場人物が、次のように語る場面があります。
「年配の男性の性欲は、どのような感じになるのか」ということを考える上で、このくだりは参考になるのでないでしょうか。
「試してみたんだ。つまり、自分一人で。わしはまだやれる。痛みを忘れられる。飲んだくれていたときは、あっちのほうもな、まるで使いものにならなんだ。そんなことを考えもせんかった。排泄のためだけ、それだけだったよ。だが、いまはやれるぞ。たとえあの痛みが襲ってきても。試してみたんだ、おとといの夜もな。途中まででも、ほれ、そのう、最後までいかずともいいんだ。あっちのほうもポンコツで、長いこと、そうとも、排泄のためだけの道具だった。ああ」
そしてその少し先でブロツキーは、次のようにも語ります。
「違っていたよ、若いときとは。若いときは売春婦のことを考える。ほれ、売春婦がいやらしいことをする場面とか、そんなこんなを想像する。しかしわしは、もうそのたぐいのことには関心がない。いまやわしが自分の息子にやらせたいのは、ただ一つ。昔のように、別れる前のように、彼女と寝ること、それだけなんだ。そのあと息子が休みたければ、それでいい。わしはそれ以上は求めん。だが、わしはまたやりたい。六回だけ、それで十分。昔やっていたように。(以下、略)
どうやら若い頃のブロツキーは一度に六回、妻と性交をしていたようです。
ただし本作が出版されたのは、作者が四十代の時です。
すなわち作者は年配者の性欲を、自身の体験に基づいて書いたわけではないと考えられます。
したがって、必ずしも正確ではない可能性も考えられます。
はたして年配の男性が抱く性欲が、本作で描かれているブロツキーのそれのようなものである場合があるのかどうか。
年配の男性のかたのご意見をお聞きすることができれば幸いです。
それから本作では男性でライダーという名前の主人公と、ヒロインと言えそうなゾフィーという名前の女性が登場します。
彼らは夫婦でないにもかかわらず、まるで夫婦のようなやりとりを交わします。
そんな彼らのやりとりも、恋人同士や夫婦の関わり方を考える上で参考にできるのではないでしょうか。
ところで本書の「訳者あとがき」には、ある可能性に「読者がおやっと気づいたところで、物語はがぜん面白くなってくる」と書かれています。
しかし読者が本文よりも先に「訳者あとがき」を読んでしまうと、その中で翻訳者が指摘している解釈に自分で「おやっと気づ」くことはできなくなってしまいます。
ですので本文よりも先に「訳者あとがき」を読んでしまわないよう、ここでお勧めしておきます。
ただし私の場合には「訳者あとがき」に書かれている、その「おやっと気づいたところで、物語はがぜん面白くなってくる」という主張は当てはまりませんでした。
そして、むしろそれとは別に私が自分で考えてみた「本作で描かれている音楽は、実は文学の隠喩なのではないか」という可能性の方を興味深く感じたのです。
なにしろ作者は文学者なので、文学について語ることに対しては関心や意欲が高いはずですからね。
ですので皆さんにも、この「本作で描かれている音楽は、実は文学の隠喩なのではないか」という可能性を検討してみるようにお勧めさせていただきましょう。
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原題は'The Unconsoled'。
本作を初めて読んだ時、私はフランツ・カフカの『城』を思い浮かべました。
本作では「じいさん」と表現される年齢のブロツキーという登場人物が、次のように語る場面があります。
「年配の男性の性欲は、どのような感じになるのか」ということを考える上で、このくだりは参考になるのでないでしょうか。
「試してみたんだ。つまり、自分一人で。わしはまだやれる。痛みを忘れられる。飲んだくれていたときは、あっちのほうもな、まるで使いものにならなんだ。そんなことを考えもせんかった。排泄のためだけ、それだけだったよ。だが、いまはやれるぞ。たとえあの痛みが襲ってきても。試してみたんだ、おとといの夜もな。途中まででも、ほれ、そのう、最後までいかずともいいんだ。あっちのほうもポンコツで、長いこと、そうとも、排泄のためだけの道具だった。ああ」
そしてその少し先でブロツキーは、次のようにも語ります。
「違っていたよ、若いときとは。若いときは売春婦のことを考える。ほれ、売春婦がいやらしいことをする場面とか、そんなこんなを想像する。しかしわしは、もうそのたぐいのことには関心がない。いまやわしが自分の息子にやらせたいのは、ただ一つ。昔のように、別れる前のように、彼女と寝ること、それだけなんだ。そのあと息子が休みたければ、それでいい。わしはそれ以上は求めん。だが、わしはまたやりたい。六回だけ、それで十分。昔やっていたように。(以下、略)
どうやら若い頃のブロツキーは一度に六回、妻と性交をしていたようです。
ただし本作が出版されたのは、作者が四十代の時です。
すなわち作者は年配者の性欲を、自身の体験に基づいて書いたわけではないと考えられます。
したがって、必ずしも正確ではない可能性も考えられます。
はたして年配の男性が抱く性欲が、本作で描かれているブロツキーのそれのようなものである場合があるのかどうか。
年配の男性のかたのご意見をお聞きすることができれば幸いです。
それから本作では男性でライダーという名前の主人公と、ヒロインと言えそうなゾフィーという名前の女性が登場します。
彼らは夫婦でないにもかかわらず、まるで夫婦のようなやりとりを交わします。
そんな彼らのやりとりも、恋人同士や夫婦の関わり方を考える上で参考にできるのではないでしょうか。
ところで本書の「訳者あとがき」には、ある可能性に「読者がおやっと気づいたところで、物語はがぜん面白くなってくる」と書かれています。
しかし読者が本文よりも先に「訳者あとがき」を読んでしまうと、その中で翻訳者が指摘している解釈に自分で「おやっと気づ」くことはできなくなってしまいます。
ですので本文よりも先に「訳者あとがき」を読んでしまわないよう、ここでお勧めしておきます。
ただし私の場合には「訳者あとがき」に書かれている、その「おやっと気づいたところで、物語はがぜん面白くなってくる」という主張は当てはまりませんでした。
そして、むしろそれとは別に私が自分で考えてみた「本作で描かれている音楽は、実は文学の隠喩なのではないか」という可能性の方を興味深く感じたのです。
なにしろ作者は文学者なので、文学について語ることに対しては関心や意欲が高いはずですからね。
ですので皆さんにも、この「本作で描かれている音楽は、実は文学の隠喩なのではないか」という可能性を検討してみるようにお勧めさせていただきましょう。
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