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ハードボイルド純愛論 [読者の皆さんと考える]

 当塾では「純愛論」と題して、ハードボイルド論を連載しています。
「ハードボイルドは愛だ」と、そこでは唱えさせていただいております。
 その旨を先日、なおぼんさんのblog「wawabubu(なおぼん)のblog」のうち「はぁどぼいるど・なおぼん」と題された頁のコメント欄に書かせていただきました。
 すると同じ頁のコメント欄に、なおぼんRさんが以下のようなコメントを書いてくださったのです。なおぼんRさん、どうもありがとうございました。

梧桐渉様 おはようございます
レイモンド・チャンドラーですね。
「優しくなければ生きている資格がない」ってやつ。
愛は西洋では、非常に熱を帯びて語られる。
神の愛、人類の愛、大自然の愛…
アガペーとエロース、フィリアとストルゲー
ところが日本には大した愛の分類はない。
だからといって日本人が愛に乏しいのかというとそうではない。
色や空模様に細かい分類をし、名前を付ける日本人が愛についてはあまり語らない。
ハードボイルドはやはり、欧米の文化を色濃く反映し、騎士道精神とジェントルマンの美学が醸し出す善と悪…そんな感じでしょうか。
ハードボイルドにはやはり人間の弱さが裏にあると思うのです。
それは愛を死守せんがために、自らを犠牲にする美しさでしょうか?

 やさしくなれなかったら、生きている資格がない――
 レイモンド・チャンドラー作『プレイバック』に出てくるこの科白に関して、「純愛論」では「純愛論.9」の頁で言及させていただいております。
 しかし「純愛論.10」の頁では、次のようにも書かれています。
「ロス・マクドナルドは人と人との愛について、より細かに描きだしたと言えるのでなかろうか。ハメットやチャンドラーなどよりもはるかに細かく、そのひださえをも。」
 さらに「純愛論.24」の頁では、次のように書かせていただきました。

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梧桐という筆名の由来 [読者の皆さんと考える]

梧桐さま

河東碧梧桐さんが好きなのですか?

Blog 拝見しました。有難し。

はじめまして
プリン66歳 形式仏教徒なのに
ピューリタンに憧れ
PPMが歌う独立自営農民の姿に
強く共感を抱きます。――

 「プリン」と名のる人がなおぼんさんのblog「wawabubu(なおぼん)のblog」の「幸福とは何だろうか?」と題された頁のコメント欄に、そう書いてくださいました。プリンさん、どうもありがとうございます。
 そこで私は同じ頁のコメント欄に、次のように書かせていただきました。

プリンさんへ。
河東碧梧桐に対して、特に思い入れはありません。
広島で被爆した梧桐に対しては、少し思い入れがありますが。
1960年代などのCounter Culture的なものに親近感を抱いておられるのでしょうか。
私も有機農家のお手伝いなどをさせていただいてきましたし。

 するとプリンさんが、やはり同じ頁のコメント欄に次のように書いてくださったのです。

俳句ではなく広島で
被ばくしたアオギリのことだったのですね。

私は1970年に予備校生18歳
ここを基準に前後10年1960-1980の日本が
たまらなく好きです。
ヴェトナム戦争も大学紛争もありましたが
当時の若者たちの情熱は今も色あせない
思い出です。
人間の条件に出てくる梶に憧れております。(引用、ここまで)

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世界平和の夢を追った日 [読者の皆さんと考える]

ウツになる人は、自分を知らなすぎるのではないでしょうか?
「足るを知る」という言葉があるのにもかかわらず、分不相応な目標を立てて、能力不足を顧みず、旧日本軍のように猛進して、やがては自己を見失い、目標すら何だったかわからなくなる。

――なおぼんRさんはblog「wawabubu(なおぼん)のblog」のうち「幸福とは何だろうか?」と題された頁のコメント欄に、そう書かれました。
 そこで私は当塾の「大きな夢と取り組む幸せ」の頁に、それを引用した上で次のように書かせていただいたのです。

 だけど私は、思うんですよ。
 目標が決して「それなり」や「そこそこ」ではない大きなものだった場合は、なかなか達成できませんよね。
 だから目標を達成してしまったことによる鬱状態には、陥らずに済む可能性が高いはずだろうと。

 しかも「大きな目標と取り組んでいる人は、達成感を味わえない」とも限っていません。
 なぜならば大きな目標を達成するためには、その途中でさまざまな段階を経ていく必要があるからです。
 そして大きな夢を果たすために乗り越えていくべき一つ一つの段階を実現するたび、手ごたえとしての達成感を味わうことができるからです。

 これは決して、単なる理想論や夢物語の類ではありません。
 なぜならば私自身が今、大きな夢と取り組んでいることによる幸せを実感できているからです。
 そんな自分自身の体験に基づいて「大きな夢と取り組んでいる人は、そのこと自体によって幸せを味わえる」と自信を持ってお伝えできるのです。(引用、ここまで)

 いったいお前は、どういう「大きな夢」に取り組んでいるというのか――
「大きな夢と取り組む幸せ」の頁を読んでくださり、そう思われた方は多いのではないでしょうか。

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分不相応な夢を追う幸せ [読者の皆さんと考える]

「鬱状態を引き起こす最も一般的な引き金の一つが目標の達成であることは、心理学や精神医学では常識です。」トーマス・セドラチェク 丸山俊一/NHK「欲望の資本主義」制作班・著『欲望の資本主義』2017年 東洋経済新報社より

 なおぼんさんのblog「wawabubu(なおぼん)のblog」のうち「幸福とは何だろうか?」と題された頁のコメント欄に私は先日、上記のような文章を転載させていただきました。
 すると同頁のコメント欄で、うつ病に関する論争(?)が引き起こされたのです。
 たとえば、なおぼんRさんが「自己を見失えば精神障害も起ころうというもの。(中略)ウツは死ななきゃ治らない」とおっしゃったのに対して「なかちゃん」と名のる人は「死ななくても治ると思いますよ」と書いておられます。

 それに対して、なおぼんRさんはさらに次のようにお書きになりました。

なかちゃん、おはよう。
私は、病というものは完治しないと考えています。
お薬や手術で治ったかに見えるだけだと思うのです。
患部を取り除く手術では、なるほど治るかもしれないが、その部分は「死んだ」のです。
死んで治すというのはそういう意味も含んでいる。
精神的な疾患は、そういう方法を取れない。
まさに主体を殺さなくては克服できない。
ウツはだから再発する。
そもそもウツは病なのだろうか?
人間の防御反応であれば、それは正常な営みではなかろうか?
健康神話で「健康」という神のような存在を皆が信じ、求める。
一体、健康とはなんだろう?
反対に、病という「状態」は異常なのだろうか?
インフルエンザに罹患するがあの苦しみは体の免疫反応が働いているからである。
罹患してもなんら苦しまず、体がむしばまれていく病の方が恐怖である。
ウツは個人的な問題よりも、あなたが指摘するように社会的に問題行動をとられる患者さんがいる。
そのためのお薬なり、カウンセリング治療は必要だと思います。
それで病状が回復し、不可逆な状態になれば「治った」のでしょう。
あなたは、おそらく優しいし、情緒的だ。
私は、その点、冷徹すぎるのかもしれない。

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