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9番目の夢.30 [20才と31才の恋話]

 子供の頃にはクラスが天才の卵で満ちあふれていた。
 ちょっとでも機械に詳しい奴がいると、誰もが噂したものだ。あいつが大人になったら大発明家として名を挙げるに違いない。いや。何も大人になるのを待たずとも、遠からず何か大発明をやらかして、少年発明家あらわるとか何とか騒がれるのではなかろうか。などと言った、そんな具合に。

 野球がうまい奴は必ずプロ野球の選手になるものだと、誰もが信じこんでいた。それも決して一軍にあがることなく二軍のまま終わるような選手ではなく、プロ野球の歴史に名をのこすような名選手に。ちょっと成績がよくて、将来は弁護士を目指ざしているなどという奴がいようものなら、必ずや日本で一番の弁護士になるものと決めつけられた。走るのが速い奴の将来は、オリンピックの選手と相場が決まっていた。歌がうまい奴は、男だろうが女だろうが皆アイドルの卵だった。

 だがもちろん、そんなのは世間を知らない子供ならではの勝手な思い込みだ。
 誰もが天才であったりなどするはずない。誰もが大発明家になれるわけではないし、オリンピックに出られるわけでもない。

 いくら子供だからって、本当ならそんなことは少し考えてみればすぐにわかる。ひとつの学校には普通いくつものクラスがあるのだし、日本中には数え切れないくらいたくさんの学校があるのだ。それぞれのクラスで野球のうまい奴がひとりづつプロ野球の選手になったとしたならば、球団がいくつあっても足りないじゃないか。それぞれのクラスで歌のうまい奴が、たとえひとりづつでも皆アイドルになったとしたら、この世のなかにはアイドルがあふれかえってしまうじゃないか。

 誰しもいつかはその事実に気づく時が来る。天才なんて、そう滅多といるものではないということに気づく時がやって来る。滅多にいないからこそ、彼らが天才と呼ばれるのだという、そんなあたりまえの事実に気づく時が来る。もし本当に天才が数え切れないほどたくさんいるのなら、彼らは決して天才などと呼ばれるはずがない。天才とは、滅多とお目にかかれない恵まれた才能の持ち主という意味なのだから。

 そして人は、いやでも思い知らされることになるのだ。輝かしい未来は誰にでも約束されているものではないのだということを。大発明家や名選手やアイドルになれるのはごく限られた、そしてごく恵まれた一部の人間だけにすぎないということを。決して天才などではなく、残りの大部分にすぎない我々には、そこそこの未来しか与えられていないということを。天才でない我々はそれなりの人生を、苦労して何とか生き延びていかなければならないのだという厳しい現実を。

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9番目の夢.29 [20才と31才の恋話]

「まいりました。先輩、俺の負けです」敏男は腰をひいて、昇の前で頭を下げてみせた。「俺にはとうてい、そこまで深く夏代のことを愛してなんかやれません。いくら夏代を好きだからって、俺はやっぱり自分のことが可愛いですからね。夏代のことを本当に考えてやってくれているのは先輩だけですよ。夏代を幸せにしてやれる奴なんて先輩しかいないんです」

「そうだろうか」
 力なく、昇がつぶやく。彼はすでに、すっかり敏男に乗せられかけてしまっていたのだ。

「先輩、夏代のことを第一に考えてやって下さい。先輩が夏代にふさわしいかだなんてことは気にせずに、夏代のためだけを思ってやって下さい。夏代は今、とても不安定で、迷ったり悩んだりしているはずです。そして、そんな夏代のことをささえてやれる相手は、この世に先輩ただひとりしかいないんですよ。さっき先輩も言っていたように、夏代のささえになってやって下さい。お願いします」

「そりゃあ俺にできるものなら、そうしたいのはやまやまだが」
「ここまできて何をためらっているんですか。夏代は先輩のことを頼りにしているんです。そんな先輩が夏代のことをささえてやらなくて、他の誰にその役目が務まるというんですか」

「わかった。俺にできるかぎりのことはやるよ」とうとう昇は敏男に説き伏せられてしまった。「でも、いいか。その役目をはたすべきなのは本当にこの俺なのか。それとも他の誰か、たとえば敏男がかわりにその役目をはたすべきなのか。それを決めるのは、この俺じゃない。それは夏代が決めるべきことだ。そうだろう」
「まあ、それは確かにそうですね」
 敏男には逆らうべき言葉もない。

「だから、それは夏代に決めてもらおうぜ」
「夏代に決めてもらうって、いったいどうするつもりなんですか」
「ちかいうち、敏男の気持ちを夏代に話すよ。お前が今でもまだ夏代を好きだっていうことをな」
「えっ、やめてくださいよ。俺のことなんか、どうでもいいんですから」

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9番目の夢.28 [20才と31才の恋話]

「ただ齢がはなれているというだけのことだったら、確かに敏男の言うとりかもしれないよ。でも夏代は高校生で、俺は夏代の先輩だったわけだから。そんな俺が夏代に言い寄ったりすることなど、できようはずがないじゃないか」
「耳が痛いな。俺も夏代の先輩なのに、あいつがまだ高校生のうちから口説いたりしてましたからね」

「うらやましかったんだぜ」昇は心ここにあらずとでもいうような眼つきをしてみせる。昔のことを思い出し懐かしさにひたっているらしい。「敏男が夏代に言い寄っているのを見て、内心ではとてもね。俺だって、夏代のことを口説きたかった。あいつのことが好きでたまらなかったからな。でも俺にはできなかったのさ。それもそうだろう。まさか俺みたいな齢の男が高校生のことを口説くわけにはいくまい。たとえ夏代は許してくれても、世間が許さないというものだ」

「それじゃあ何だか、ますます俺の立場がないというものでしょう」敏男が口をとがらせた。「そこまで言われたんじゃ、現に夏代のことを口説いた俺はよほどの悪者みたいに思えてくるじゃないですか」
「いいんだよ、敏男は。まだ若いんだから。お前くらいの齢の差なら何も問題はないだろうさ」

「先輩だって、別に何も問題なんかないですよ。そりゃあ、先輩が軽い気持ちで夏代のことをもてあそんだりしたというんだったら、その時は俺だって本気で怒りますけどね。でも先輩は、少なくとも真面目に夏代のことを考えているわけでしょうし」
「俺が真面目だということだけは信じてもらってかまわないだろうな。夏代さえそれでかまわなければ、俺は一生の間でも夏代と一緒に暮したいと思っているわけだから」
「先輩がそこまで本気なら、もう何も悩むことなんかないじゃないですか」

「そうはいかないよ。確かに今の夏代は、もう決して高校生なんかじゃない。でも、まだ二十歳の女の子なんだ。それなりの夢もあるだろうし、やりたいことだってたくさんあるだろう。そんな若い女の子にとって、俺みたいな年くった男は邪魔なさまたげでしかないはずさ。俺は決して、夏代に何かを強いたくはない。俺のため夏代に何かを諦めさせたくはないし、彼女の足手まといになんか死んでもなりたくはない。俺は夏代のことを愛しているし、彼女に何かやりたいことがあるのなら、できるかぎり手助けをしてやりたいとは思うよ。でも俺が夏代にしてやれるのは、そこまでだ。それ以上でしゃばるわけには、いかないだろうな。その時、俺は夏代にとって必ずや邪魔な何ものかでしかなくなってしまうことだろう。そして俺は、それがいやなんだ」

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9番目の夢.27 [20才と31才の恋話]

「先輩がそこまで夏代のことを考えていてくださるのは、俺としてもありがたいと思います。でも先輩、今日ははっきりと聞かせて下さい」ここぞとばかり敏男は昇につめよった。「正直なところ、先輩は夏代のことをどう思っているんです。先輩にとって、夏代はいったい何なんですか。どうして先輩は夏代のことに、そうまで一生懸命になれるんですか。俺も先輩に自分の気持ちを話したんだから、先輩も本当のことを教えて下さいよ」

 敏男の言葉は、昇の心の奥底のいちばん深い柔らかい所に鋭く切りこんでくる。
「しかたがないな。そうとまで言われちまったんじゃあ」それでもまだ昇は、ぐずぐずとためらいをつづけた。「本人にさえまだ話していないことを他の者に対して先にしゃべっちまうってのは、あんまり好きじゃないんだが」

 このような考え方をするあたりが昇ならではの律義さだと言えるだろう。しかしこの時、彼の腹はすでにおおかた決まりかけていたのだ。これまではあえて抑えつけ続けてきた自らの素直な気持ちを、敏男には話しておいた方がいいだろうと。

「わかった。負けたよ、お前には」ようやくためらいを断ち切って、昇は口をきる。「敏男がそこまで自分の気持ちを話してくれたのに、俺が隠しだてをしてたんじゃ失礼にあたるからな。この際だ、思い切って聞いておいてもらおうじゃないか」

 とは言ったものの、続く言葉をすぐにも口に出してしまうだけの勇気など昇にはあろうはずもない。彼は天井を見あげてひとつ大きくため息をついた。敏男はもはや何も言おうとしないで、昇がふたたび口を切るのを待っている。昇が言うであろう言葉を待ちかまえているかのように。このまま昇が何も言わなかったとしたら、たとえ十分でも一時間でも、いや一生の間でさえ待ちつづけているつもりなのではなかろうか。そんなふうにすら感じられるほどだ。

 やがて昇は、ひとつひとつの言葉を絞りだすようにしながら次のように語りはじめた。
「確かに、俺は夏代のことを愛しているよ」
 たったこれだけを言うだけでも、昇にとってはやっとの思いだったのだ。

 好きだというのでは言いたらない。自らが夏代に対して抱いている深い想いを言いあらわすのに、好きだという言葉だけでは何かがとても言いたりないように思われる。だからこそ昇は、愛しているという言葉を選んだ。それが自らの想いを言いあらわすのに、最もふさわしい言葉だと感じられたからだ。愛という言葉を、夏代に関して昇はこの時はじめて口にしたような気がする。いや、自らが夏代を愛しているということに、このとき昇は改めて自らはっきりと気がついたのかもしれない。

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