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9番目の夢.41 [20才と31才の恋話]

 ………それは街はずれにある、古ぼけた小さなビルの四階。口汚ないののしり声が、いきなり窓の外の通りにまで響きわたった。
「馬鹿野郎。てめえは何年、この道で飯を食っているんだ。こんなつまらない文章が使いものになるわきゃあないだろうが。そんなこともわからないのか」

 窓の外から覗いてみると、大きな机に座った男が、その机の前に座っている女を激しい勢いで怒鳴りつけているのだ。そして何とも驚いたことに。よくよくその顔を見ると、男はすでに齢をとり腹も出はじめた昇ではないか。さらに女の方はといえば、なんとすっかり大人びていい女になった夏代だったりするんだな、これが。

 同じ部屋の片隅では、女子社員ふたりのささやく声がしている。
「あの夏代さんって実力もないのに、編集長のこねだけで入社したのだそうよ」
「あんなに怒られて、いい気味だわね」
「早くいつも口癖のように言っているとおり会社を辞めて、北海道でもどこへでも行ってしまえばいいのに」
 美しい女は、いつでも妬まれるさだめにあるということだろうか。

 だが編集長にいくら激しく叱られようとも、夏代は決してくじけない。夏代には、はっきりとわかっているのだ。あの鬼のような編集長が、しかし心の底ではどれほど夏代のことを気にかけてくれているのかを。夏代の才能を高く買い、大きな期待を寄せていればこそ編集長は、これほどまでにも夏代に厳しくあたるのだということを。

 夏代と昇がふたりで新しい雑誌を出しはじめたのは今からおよそ十年ほど前のこと。誰にでも面白くて質のいい読み物を求める声は、決して少なくないはずだ。穏やかな笑いや感傷に彩られた上品な読み物の雑誌を出したならば、必ずやひろく受け入れられるに違いない。そんな昇の読みは、みごとに正しかったのだろう。主に女の人をその読み手として、お涙頂戴のラヴ・ストーリーを売り物とする彼らの雑誌は、見る見るうちに部数を増やした。今ではもはや押しも押されぬ国民的雑誌とすらなっている。そしてその編集長をつとめているのが、他ならない昇だというわけだ。

 雑誌の売れ行きがいいことに気をよくした編集長は、本さえも何冊か出してしまった。それらのなかには夏代と昇と、ふたりの手になる共著もある。すなわち「心の壁と愛の橋」と「おとしぶみ列伝」の二冊だ。さらに編集長は、音楽や映画にまで手を広げようとしているらしい。あまり慣れないことに手を出さない方がいいという、昔からの友人たちの諫めの言葉を聞こうともせずに。

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9番目の夢.40 [20才と31才の恋話]

 書きたくもない文章を書いて、それでなけなしの金を稼ぐくらいなら、むしろ文章なんていっさい書かない方がずっとましなのでなかろうか。そう昇は考えている。だがもちろん、自らの書きたいことを書いてそれで金を稼ぐことのできる者など、そうそう大勢いるわけではない。それができるのはほんの一握りの、ごく恵まれた者たちだけだ。

 そして昇は、そんな恵まれた者たちのうちのひとりになりたかった。自らにはそれだけの力があるものと、かつてはそう考えていた。しかし、今では違う。自らにはそんな力などとうていありはしない。夏代より余分に生きた十年間で、昇はそのことを自らの心にはっきりと思い知らされたのだから。

 だとすれば文章を書いて身を立てることなど、きっぱりと諦めるべきなのではなかろうか。世に出るまでの腰かけのつもりで勤めはじめた今の会社を、昇は居心地のいいところだと感じはじめていた。仕事は決して面白くこそないものの、昇にとっては片手間でこなしてしまえるほどの楽なものだ。そのくせわりと高めの給料をもらっているし、社長の信頼も厚い。いつの日にか社長の座をねらうこととなるであろう候補者のうちのひとりとして、社内でも噂されている。このままこの会社に勤めつづけて、いったい何がいけないというのだろう。文章で身を立てようとするよりは、その方が先行きもはるかに安定しているのだし。遠からず夏代と一緒に暮すことを考えるなら、自らの夢はいさぎよく捨てるべきだ。いつまでも夢を追いもとめつづけるのではなしに、夏代が暮していくための金を確実に稼ぐことをこそ、何よりも大切に考えるべきだ。夏代のためになら夢を諦め、このさき彼女の暮しをささえるべく金を稼ぐためにだけ生きていくことになるとしても、昇はまったく何らかまわない。

 そして昇は、夏代に自らの夢を託そうとしていた。自らには手の届かなかった夢を、夏代がかわりに果たしてくれることを望んでいた。そのためにも夏代には、つまらない仕事など決してやってほしくない。しょせんは使い捨てにすぎない仕事などで、自らをすりへらしてほしくない。夏代の名前がきっちりと出て、原稿料もちゃんともらえるような仕事をこそしてほしい。

 だが、いきなりそんな仕事をまわしてもらうのがどれほど大変なことか。それは昇にも、よくわかっている。
 だから昇は何とかして、自らが夏代にそんな仕事をとってきてやりたいと考えた。自らの力で、夏代を世に出してやりたいと考えた。何とかしてそうする手だてはないものだろうかと考えた。
 しかし今の昇にとって、どうやらそれは望むべくもないことらしい。残念ながら昇は何らのつても力も、持ち合わせてなどいないのだから。

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9番目の夢.39 [20才と31才の恋話]

「センパイ、聞いて聞いて」
 夏代は昇の顔を見るなり朝の挨拶もそこそこに話しかけてくる。彼女はここが職場だということを時おり、すっかり忘れてしまうらしい。

「私、仕事もらっちゃったのよ」
「仕事って、いったい何を」
「ほら、私が大学の学内誌に載せた文章がいくつかあるでしょう。地方の豪族だとか、あるいはこないだのやつだとか。ほら、あったじゃない。パリにいた私の友だちが、香水がきっかけでフランス語を覚えた話。あのへんが編集者さんの目にとまったらしくてね。うちの雑誌に文章を書いてくれないかって頼まれたのよ」

「へえ。そいつは良かったじゃないか。でも夏代、いったいどんな雑誌なんだい」
「それがまだよくわからないの。雑誌の名前は聞いたんだけど、私の知らない雑誌だったし」
「ふうん。それで夏代さあ、変なことを訊くようだけど、原稿料はちゃんともらえるのか」

 いつの日にか自らの雑誌を出したいと、少なくとも一時期は志していた昇のことだ。雑誌のはたけの内幕を、おそらく夏代よりはよく知っているはずだろう。それだけに、昇としては現実的な考え方をしないわけにいかない。

「それがねえ、残念ながら出ないのよ。原稿を書くのにかかった経費だけは出してくれるそうなんだけど。でもまあ、そういう仕事をして名前を売っておけば、いずれ他の仕事もまわしてもらえるようになるんじゃないかな。ほら、あの業界は何よりもつてがものを言うみたいだから」

 危ないな、と昇は思った。
 今の日本で、自らが書いた文章を活字にすることそのものは決して難しくなんかない。
 世の中には、いったい誰があんなに読むのだろうかと思われるほど、いろいろな雑誌があふれかえっている。そして文章を書く者はいつだって人手不足だ。その気がありさえすれば誰だって、自らの書いた文章を雑誌に載せることはできるだろう。もちろん書くなかみについて、決してえり好みをしなければの話だが。

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9番目の夢.38 [20才と31才の恋話]

「夏代さん、お昼はもう食べました?」
 これですべてが終わりです。
「いやー、今日、金ねえからさ」
「じゃあ、あまり高くないところへいきましょう」

 これで本当にもう終わりです。一緒に食べに行くなどとは言っていないのに、いつの間にか強引に話を進められ、そして五分後、気がつくと私は何だか良く分からないフランス料理店のテーブルに座らされているのです。そして一番安い「ランチ・ビストロコース壱千五百円」か何かを注文してしまうのです。そしてRは、「ランチ・プチコース弐千五百円」などという信じられないものを注文してしまいます。さあ、静寂な音楽の流れる中、やってきましたフランス料理。そのころ私の頭のなかでは「壱千五百円あったら吉野屋の牛丼大盛りが何杯食べられたか」の必至の計算式と、後悔の念でいっぱいです。しかしもう遅いのです。テーブルの上に並べられていく、色とりどりの料理達を眺め、決心を固め涙を飲んでさあ食おう、とナイフを手にした時、Rは言うのです。「………えー、想像してたのとちがう………。」

 そうして彼女は、その料理に手さえつけないまま、静かに座っているのです。一口も、食わないのです。ぜんぜん食わないのです。この大馬鹿者は。
 私は、飯を残すことが極端に嫌いな人間でして。
 心の底から沸き上がるような怒り………「注文したものぐらい、食え!」……を、なけなしの理性で無理やり押さえながら、私は言います。「勿体無いから、少しは食べなよお」するとRは言います。「………夏代さん、食べてくれる?」
 かくして。私はフランス料理点で、二人分のランチをきれいにたいらげるという、あまりみっとも良くないことをやってのけてしまいます。

 そしてお勘定です。余計なところで気を回してしまう私は、どうしても、一口も食べずに座っていただけのRに弐千五百円全額を払わせる気にもなれず、彼女の分の半額とちょっとを援助してしまいます。もうメシが美味かったかどうかなんて解らないくらいに頭の中がぼんやりするよなその昼飯代。教科書を買うために前日銀行からおろした金は、こうしてあっという間になくなります。こんな事のくりかえしで、お蔭で私はまだ語学の教科書すら持っていません。

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