内田樹さん、襟を正して [読者の皆さんと考える]
当塾の『女は何を欲望するか?』の頁に掲載した文章を読みかえしながら、こう考えました。
どうやら内田樹の書く文章は、わりと粗雑なようだと。
あの頁に引用した内田樹の文章で、見てみましょう。
まず最初に「教条主義と事大主義と肌が合わないので~」という文章。私なら普通に、「教条主義や事大主義と肌が合わないので~」などと書いたと思います。ここで「教条主義と事大主義と」というふうに助詞の「と」を重ねるのは普通、特別な意図がある場合だけでしょう。そしてここの部分で内田樹に、そうするべき「特別な意図」があったとは思えません。なのに「と」を重ねているのは、この文章が粗雑に書かれたためではないかと推測されます。
もちろんこれは単純な書き間違いを校正の段階で見落としただけか、印刷ミスである可能性も考えられます。
しかし次の「主人公に同一化」の部分は、単純な間違いだとは思えません。
私が引用した最初の段落で内田樹は、物語の読者が主人公の「パースペクティヴに同調することを余儀なくされる」と言いきっています。
しかし次の段落では「私が男だから、これらの物語を読みつつ、ジャーヴィーやローリーやギルバートの立場に共感して読んでいるはずだ、と推論するのは間違っている。勝手にそう推論するのは構わないが、それは事実ではない」と書いています。すなわち主人公でない登場人物に同一化する読者がいる(と考える人がいる)可能性を認めているわけです。
『女は何を欲望するか?』の頁では引用しませんでしたが、さらに次の段落では「女性読者であれば必ずデイジー・フェイやシルヴィア・レノックスに共感して読むということはないと思う。女性読者ではないので想像だが」と書いています。すなわち「一部の読者は主人公でない登場人物に同一化するだろう」と推測しているわけです。
このように、わずか十数行の間に内田樹の書いていることは大きくぶれてしまっています。しかも十八頁あとでは「読みは読者の数だけある(と私は考えている)」と書かれています。だとしたら、主人公に同一化しない読み方もありえるはずではないのでしょうか。現に『女は何を欲望するか?』の頁で書かせていただいたように、私は異性の主人公に同一化せず自分と同性の脇役に同一化する読み方をする場合がありますし。
ただ普通に読んでいるだけですと、これらのような箇所に少し引っかかるものは感じても、そのまま読み流してしまうことも多くなります。私も『女は何を欲望するか?』を最初に二回、通して読んだだけの時はそうでした。
しかし今回のように引用しようと思って丁寧に読むと、その中に矛盾などがあった場合は目についてしまいます。
昔は著者の草稿が粗雑だと、編集者なり校正者なりが指摘して改善することも多かったと聞いています。
しかし最近は編集や校正が充分に機能せず、粗雑なままの内容が本として出版されてしまう例も多く見受けられます。
これまでに当塾で取り上げた本の中では、牛窪恵『草食系男子「お嬢マン」が日本を変える』などがその例だと言えるでしょう。
ある書き手の著書が売れるとなると、多くの出版社がその書き手の著書を次々と出版しようとする傾向があります。
そのため、その書き手が短期間に多くの著書を執筆することになりがちです。
その結果、それらの著書は内容が粗雑になってしまいかねません。
このような傾向が指摘されたので内田樹は最近、今後の自著の出版点数を減らすことを決めたそうです。
このところは内田樹の著書も、かなり多くの点数が次々と出版されていました。
その結果、私が気づいたような粗雑なものも生じてしまっていたのかもしれません。
しかし自ら進んで襟を正そうとするあたりは、さすがに内田樹だなと感心させられました。
私も「人のふり見て我がふり直せ」で、粗雑な文章を公にしてしまわないように自戒したいと思います。
幸か不幸か内田樹と違って私は、著書は極めて少ないのですが(苦笑)。
しかしblogも、全世界に対して公開された文章の一種なのですし。
お互いの考え方に異なる点が多いものの私は、基本的には内田樹の人柄を評価しているようです。
そしてそれは、当塾の「親切な助言に感謝します」の頁に引用させていただいた内田樹の言葉が大きな一因となってるのでしょう。
ところでこの頁の冒頭の一文は、よく知られたあの作品の真似ですね。
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もちろんこれは単純な書き間違いを校正の段階で見落としただけか、印刷ミスである可能性も考えられます。
しかし次の「主人公に同一化」の部分は、単純な間違いだとは思えません。
私が引用した最初の段落で内田樹は、物語の読者が主人公の「パースペクティヴに同調することを余儀なくされる」と言いきっています。
しかし次の段落では「私が男だから、これらの物語を読みつつ、ジャーヴィーやローリーやギルバートの立場に共感して読んでいるはずだ、と推論するのは間違っている。勝手にそう推論するのは構わないが、それは事実ではない」と書いています。すなわち主人公でない登場人物に同一化する読者がいる(と考える人がいる)可能性を認めているわけです。
『女は何を欲望するか?』の頁では引用しませんでしたが、さらに次の段落では「女性読者であれば必ずデイジー・フェイやシルヴィア・レノックスに共感して読むということはないと思う。女性読者ではないので想像だが」と書いています。すなわち「一部の読者は主人公でない登場人物に同一化するだろう」と推測しているわけです。
このように、わずか十数行の間に内田樹の書いていることは大きくぶれてしまっています。しかも十八頁あとでは「読みは読者の数だけある(と私は考えている)」と書かれています。だとしたら、主人公に同一化しない読み方もありえるはずではないのでしょうか。現に『女は何を欲望するか?』の頁で書かせていただいたように、私は異性の主人公に同一化せず自分と同性の脇役に同一化する読み方をする場合がありますし。
ただ普通に読んでいるだけですと、これらのような箇所に少し引っかかるものは感じても、そのまま読み流してしまうことも多くなります。私も『女は何を欲望するか?』を最初に二回、通して読んだだけの時はそうでした。
しかし今回のように引用しようと思って丁寧に読むと、その中に矛盾などがあった場合は目についてしまいます。
昔は著者の草稿が粗雑だと、編集者なり校正者なりが指摘して改善することも多かったと聞いています。
しかし最近は編集や校正が充分に機能せず、粗雑なままの内容が本として出版されてしまう例も多く見受けられます。
これまでに当塾で取り上げた本の中では、牛窪恵『草食系男子「お嬢マン」が日本を変える』などがその例だと言えるでしょう。
ある書き手の著書が売れるとなると、多くの出版社がその書き手の著書を次々と出版しようとする傾向があります。
そのため、その書き手が短期間に多くの著書を執筆することになりがちです。
その結果、それらの著書は内容が粗雑になってしまいかねません。
このような傾向が指摘されたので内田樹は最近、今後の自著の出版点数を減らすことを決めたそうです。
このところは内田樹の著書も、かなり多くの点数が次々と出版されていました。
その結果、私が気づいたような粗雑なものも生じてしまっていたのかもしれません。
しかし自ら進んで襟を正そうとするあたりは、さすがに内田樹だなと感心させられました。
私も「人のふり見て我がふり直せ」で、粗雑な文章を公にしてしまわないように自戒したいと思います。
幸か不幸か内田樹と違って私は、著書は極めて少ないのですが(苦笑)。
しかしblogも、全世界に対して公開された文章の一種なのですし。
お互いの考え方に異なる点が多いものの私は、基本的には内田樹の人柄を評価しているようです。
そしてそれは、当塾の「親切な助言に感謝します」の頁に引用させていただいた内田樹の言葉が大きな一因となってるのでしょう。
ところでこの頁の冒頭の一文は、よく知られたあの作品の真似ですね。
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